あしもと

夜中に突然知った事実(かどうかはわからない、知りようもない)。
世阿弥バイセクシャル

バイセクと両性具有ってのは全然意味が違うのだろうけど、自分のイメージとしては、ストレートな人よりも、高い次元にいる感じ。
性別にこだわらない、という時点で軽やかに生きている印象をもってしまう。
が、実際にバイセクな人に遭遇したことがない上に、こればっかりは見た目でもわからないからあくまでもイメージの域を出ないが。

その脳内イメージをそのまま出力すると、観音様とか菩薩とか和風なタッチになる。しかも色合いは桃色じゃなくて漆黒の中に寝乱れた観音様がいつものあの涼しげと慈愛に満ちた顔をしていて、そこに純金の飛沫が舞っているのだ。
観音様の下には餓鬼がうじゃうじゃ曼荼羅になっていて、その餓鬼のうちの一人が自分です、という構図だ。なんだそれは。

タッチが和風の宗教画になるのは、説法や修行など、ストイックな部分ではまるっきし共感も共有もできない自分でも、えげつない部分でなら自分もなにかしら高尚な存在と繋がれる可能性を感じるからなんだろう。
洋物にはつけいる隙がない。真顔で処女懐妊とかいわれた日には。

私のこの曼荼羅イメージの出所は日本書紀にあるヤマトタケルの生い立ち描写からきていると思われる。
神々が超自由。ふしだらと認定してよい。

日本ノ霊異ナ話

日本ノ霊異ナ話

ブックバトンがまわってきたときに、伊藤比呂美の育児本をあげて、そういえば今どうなっているんだろうと近著を読んだらその中にこの小説が紛れていた。
育児エッセイから多淫多情小説というのは飛躍しているようにみえて、読んでみると少しも矛盾がないのが凄い。
思えば、育児する日常の中に、子殺し(母親による)や、人が容赦なく時間とともに老いることがサラサラと混ざりこんでくるエッセイを興味深く覚えたものだった。
昔はそれぞれ別の点だったものが、線としてすんなり繋がることの多いこのごろ。
世阿弥バイセクから→観音様へ→仏像と交歓する僧へといきなり繋がってしまった。それもどうだ。
あの本を読んだ頃、ジョディ・フォスターが売れていて、小娘になんか人生のウンチクをたれてみれというリクエストに答えた言葉はこうだ。
「歳をとるのも楽しいものよ」
なんかスゲー。この人スゲーと思ったが、同意できる気が今ならちょっとする。
といってる先から、乾燥しまくりの室内で、クチビルの皮むけまくりがせつない。
う、う、潤いはどこへ!
どうでもいいが、“世阿弥バイセクシャル”ってなんか東スポの一面記事みたい。“プレレスリーは空手チョップで死んだ”(確か、湾岸戦争開始の日の一面記事の見出し)をひさびさに思い出してしまった。
みんな、世阿弥の何を知っているというのだ。プレスリーのこともよく知らんけど。