Пойдём вдвоём.

ふたり



自分の身近にいないので、牛娘。のファンがどんな人なのかわからない。
しかし少なくともファンというからには牛娘。の環境(最初は戦略ぽく、今は思いつきっぽく迷走している一連の流れ)も含めて好きなのだと思っていた。
でもどうもそうじゃないようだ。
ファンを自称しながらも否定的な発言をしばしばみかける。
この否定はファン以外の第三者がする否定とは意味の異なるものであることはわかる。
ブライス好きな人がブライスに文句を言うのはダメだしの意味があり、牛ファンの否定発言もこれに準ずる。鼻から受け付けない人が「キモイ」と発言するのとはべつの話だ。
「牛はこうあって欲しい」というファンの望みは案外とシンプルなことは驚くことではない。
ブライスはただヴィンテージモデルに忠実なレプリカであって欲しい。
ところがこのシンプルな望みがびっくりするほど叶わない。
「その時」がきたら万感のボルテージで、一番頂点にきたときに最高のタイミングで爆発させるために「意図的にじらされているのかな?」とか思っているうちに、こちらが卒業の期を失い、ここまできたら最後まで付き合おうみたいなヤケクソな匂いすら放っている。「その時」が全然こない。そもそも「その時」は用意されているのか。
壮大にも思えるが、これは数十人の女の子のうら若い日々、そしてそのファンの貴重な時間やお金を犠牲にして資本主義が行われているだけのことなのだ。
望みはシンプルなのに。
人数が増えたり減ったりしてもよい、卒業した人がソロになってもよい、ユニットがあってもよい、でも母体としての牛には
・ちゃんと「ヒット曲」と呼べる曲を持たせ(一般人をひきこむ高品質な楽曲)
・その曲にはその期の特徴を打ち出し(継続して応援することに意味を持たせ、新規ファンを常に獲得)
・ユニットにはファンの嗜好を考慮した意外性と(あの子とあの子でやったらいいのになあ、という願望を成就)
・一般人を引かせないが、興味はもてるような安定感を(数打てばあたるかも、みたいな場当たりなものでなく)
・そしてシリーズとして定着を(ちゃんと戦略があってそれがあたっている、ということを誰もが共有できる説得力)
保って欲しい、とかそんな感じ。

なんか当たり前じゃないか、と思うが牛ファンからみても今の牛がそうではないんだろう。
じゃ、過去にそんな実績があるのか?
ちゃんとみていない私にはジャッジしかねるのだけれども、さもそうなりそうな雰囲気は感じていた。
「実はこういう法則がありました」的なことを明かされたら、みんなで一斉に膝を打てるような何か。
それが用意されているかのような。

たとえば初期の曲。一人では歌えないようなハモりの妙というか。見てもいないのになんだけど「スウィング・ガールズ」ってそういう映画なんじゃなかろうか。「賢明に合奏する乙女が健気で眩しい」。
筋は実はどうでもよく、結末もどうでもよく、その眩しさをめでるのが目的になっている。
一人では歌いきれないような曲構成。後ろで飛び跳ねたりしている人にも意義があった。
牛の中で一番可愛いのが保田という人がいても私は驚かない。賛成はしないけど。
がんばっている保田、というのに価値を見出す人がいてもおかしくなかろう。というか、辞めたらいけない人は保田だった気がする。ああいう人がいないとスウィングガールズが成立しない。
子供で金儲けしようとしやがって、と良く思いこそしなかったけれども、実際惹かれる何かはあった。初期。乙女の1ダース超えを果たした現在の人数で、ちゃんとハモる曲を歌ったら、少なくとも現存の歌手にはない特性を持たせられるのに。

今、私はもしかしたら、そういう戦略だとかメディアだとかのマジックにかかっているのかもしれないが、把握できてすらいない沢山のユニットの中で、加護ちゃん辻ちゃんのユニットだけがズバ抜けて完成度が高くはないか?
実際、ダブルユー(おばちゃん、表記すらままならない、wと書けばよいの?)がどんなユニットかというと、二人がでてきて歌い踊るだのだが、「私たちはとても仲がよい、お風呂も一緒にはいるぐらいで、いつかは一緒に住みたい、結婚しても一緒に住みたい」とかいう発言をだんだん私は受け入れ始めている。
若くて可愛い女の子が混浴しており、二人の口からそんな発言がリリースされた日には、その情景を想像して妄想して悶々とする男子が続出するのではないか、それを狙ってあえて発言しているのではないか、と最初は思っていて、今もそう思っているのだけれども、「うわ、いやらしいなっ」というのが初期の印象で、最近では「いやらしいなっとか思う自分がいやらしいのだなっ」という気持ちになってきているのだ。
「こうなってほしぃ」というファンの切実な思いが、いつしか言霊となり、ありもしない架空のユニット、ダブルユーを生み出したー!というイメージにすりかわっている。
ダブルユーは実在しない牛娘。の(元)メンバーによるユニットで、実は牛娘。に加護ちゃん辻ちゃんもいなくて、「いたらいいなっ」とみんなが思ったら、その思いがひとつになって、双子みたいに仲良しな二人が生まれましたー。という感じに私には見え始めている。
私が一瞬だけえらく気に入っていた変なドラマ、本池上署に加護ちゃんが出演している。ドラマのワンポイントとして。
でも一人でいる加護ちゃんはただの「牛の人の一人」で何のパワーもない。
どちらか一人で存在しても意味なし。
黒髪ばかりの集団に、一人金髪が混ざっていると、それが異分子だとわかるが、茶髪赤髪集団の中に一人金髪が混ざっても「明るい毛色の人」でしかないのと同じ。
強引に双子、とか、年子の姉妹、とか、居候している従姉妹とか、こじつけでいいから二人そろってレギュラー出演していたら、本池というドラマの本質さえ揺るがしたろうに、と思う。
月曜8時のお茶の間ドラマが、突然深夜臭を帯びた実験ドラマになり、これで主役を張ってシリーズ化を勝ち得た暁には、高島弟の芸歴に新たな1ページを進呈したのではないか。(本人が欲しがるかは不明、むしろバナナ探偵団の頃の下積み時代に逆戻りのテイもあり)そのドラマがあたるかは別として。

そのダブルユーのパワーの源は、あのムチムチハチハチした肢体、エクボがはいるようなヒザだとかプヨプヨした二の腕とか、骨を感じさせない体つき、及びそのような体をしていながら「本気のダイエット」にのりださない二人の思考。どちらかが痩せていたら危機感を持つのか、二人いるから余計に食欲が増すのか謎だ。一番体重とか体系とかを気に病みそうな年頃なのに、そうでないのが「意外性」なのか、「なんとかしたらどうなんだろう」と見るたびに思うわりに、私は二人が痩せることを心から望んではいないのだ。
そしてもうひとつ大事なのが髪型。
脳天でおばかっぽく、漫画っぽくテールにしてあるのが「ON」で、束ねずにおろして清楚ぽくしてあるのが「OFF」。
本人たちが、このオンとオフとでキャラを使い分けているという事実はぜんぜんなく、見た目の雰囲気が変わるだけでべつになんの仕掛けもないのだが、見ているこちらが勝手に見分けている感じだ。
こうなるともう、二人は何かを生み出しているとしか思えない。
ただ二人並んで声を揃えているだけなのに。
その二人のパワーが、全盛期(ラブマシーンあたり)の牛全体のパワーと拮抗している気がする。
二人に何か秀でた才能とかを感じているわけでもなく、容姿を凄く評価しているわけでもないし、楽曲がとても優れていると思うわけでもないのに、私は何か、「二人でいるときだけ凄いように見える二人」というものに幻想を持っている。
落ちぶれたアイドルが、年増になってからいかがわしい写真集をだしたり、過去を暴露したり、というのはよくあることだけれど、実際、牛もいつかはそうなるのだろうけれど(これだけ人数が多いと、今後全員が芸能界で面倒をみてもらえるとは思えない)、加護辻だけは!この二人だけはその魔の手から生き延びて欲しい、とか思う。最後の砦として。
現状維持のままでそれが叶うとはとうてい思えないし、パヒーみたいに、突然のアーチストきどりとかをはじめたら鼻につくことを必至、昔のファンを金づるにしてピンクれでぃーみたいになられても辛いのかもしれなくて、女優とかいわれても無理があるし、いつも双子の役をやるわけにいかないし、双子といいはるほど似てないし、いろいろしんどいと思うけど、「仲よしー☆」な感じだけは保って欲しい。
そのために、今後母体が危うくなっても二人で営業回れるぐらいのヒット曲が必要。
なんせ宇宙は広いというし、一説によると無限だというし、数多ある星の中に、仲良し女の子二人だけが住める星「ダブルユー☆」とかいうのがひとつあってもいいではないかーと思う今日この頃。
その☆は当然、こんぺいとうで出来ている。食事の時間になると、マシュマロのおうちから二人がトテトテ走りでてきて、トゲトゲした☆の角っこのところをかりっとかじるのだ。だから二人はいつも肥えている。この☆では普通の出来事。

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ・トリビュート(CCCD)