サイボーグでお困りの件

うふふーんっ

ず〜〜っと我慢しているわけにはいかないからたまには「チートデイを儲けるず」とかいって油断していたら、なにげに過食傾向にあり微妙にリバっている俺さ。

骨盤ダイエットってなんなのだろう_?
骨盤が枕でなんちゃら、の変な本をワラにもすがる思いで購入した私、その結果、さぼらずにその体操を続けると本当に腹まわりが数センチ細くなるから驚きだよ(体重は減っていない)。
それはなぜなのですか?というのを恥ずかしながらドクターにたずねてしまった。
私がぬるいダイエッターな質問ばかりするのでドクターは食傷気味。
目の奥にうっすら侮蔑を浮かべていることもある。
確かに、私は「リンパマッサージで20キロ減」とかを信じた状態でダイエットスタートしたようなアホの子ですので、どうぞ、なじってくだちい、としかいえないよ。
そんでもってドクターのいうことには
「骨盤が体操でひろがったり閉じたりしたらえらいことじゃん」。
確かに。

でも、これはあまりにも恥ずかしくてドクターに白状できなかったけど、実際に骨盤枕のあれで自分のサイズがダウンした、あの現象はいったいなんだったのだろう?
その答えはまたドクターに別の質問をした中にあった。
「人間の体はふくらんだりしぼんだりする」。
実際にはそんなことはないだろうが、仮に、1時間で10キロ痩せを実現させた人がいるとする。1時間で、この人の「見た目」は10キロ分変化するであろうか?
この答えはノーなのにゃ。
脂肪の増加によって押し広げられた内臓部、そのためにひろがった肋骨部、など、これらが短い時間で閉じたり広がったりはしない。
数週間、数ヶ月、という時間をかけてあるべきサイズにフィットする。
靴下が足にフィットするイメージ。
場合によっては皮や肉にたるみが起こるが、(極度で無い場合は)時間をかけてこれもフィットする(私の腹に残っていた浮き輪ちゃんもどこかに消えたー)。

私は何が言いたいのかというと、
「3キロ痩せたのに見た目に変化がおきないー」という現象は確かにある、ということ。
でも、その3キロ痩せをキープすれば、数週間後には「3キロ痩せの見た目に変化していくー」ということ。
体重減少のスピードと、体の表面積の減少のスピードには時間差があるということ。
体重が減っても外見に思ったほどの変化がないとモチベーションはさがってしまうが、メゲずにキープすると見た目にも反映されてくる、ということ。

↑一年かけて私が学んだことだということ!
(で、結局骨盤の謎は解明できていないけどな)
何で突然いいたくなったかというと、来年の手帳をどうしようか選ぼうとしていて、今年の手帳の体重記録を見ながら胸アツになったということだ。
・あと1キロの壁がやっぱり越えられず、目標の体重に到達することはついになかった。えーん
・減るどころかちょっと増えてしまっているが
・去年の年末に自分がどんな状態だったかを顧みれば、やっぱ自分はけっこう(とくに今年の前半は)頑張ったのではないか、ということ。
・ただ、目標達成が近づいた頃すっかりテンションがさがっており、テンションがさがるとやっぱ無茶がきかないので油断しがち。

デブ撲滅にあたって一番意外だったことといえば、
上記の「タイムラグ」の件ともうひとつ。
デブな私が夢見たことは、ダイエットして、このまま、食うことに興味がなくなってくれたらいいのになーということであった。
ところが、ダイエットしているとちょっとした甘味もホクホクにおいしく感じられ、前よりさらに食べ好きになっているのが本当に厄介。
やっぱ、「人間だもの」ってことなのか。
生死と直結しているし、食を否定したらいけないのかな。
いけないよね。
えっと、ありがたい、とおもってご飯を食べられるのがありがたい、という気持ちを持ってありがたく食事をしたいとおもうー。
でも目標体重は変更せずに目指してみようー。

年末身内に不幸があり、別の法事もあり、やたら親戚の集まりが多かったためにすっかりご無沙汰な人たちの話を耳にすることも多かった。
ある家では親戚のヲバが大病しているという。
親戚の集まりがあるとたいがいやってくるのに、だから今年は一度もその家の人と会わなかった。
そのヲバは(私に言わせると)ちょっと無粋なところがあり、ガサツなところもあり(私の体感)、ズケズケしたところもあり、昔はそれほど気にならなかったけど、自分が歳をとって多少なり子供じゃなくなってからは苦手タイプに分類してきた。
まず嫌なのが脳に新陳代謝がないところ。あるところからまるっきり更新されていないエリアがある。アップデートされていないので現実とズレがあるが、私とヲバとにズレが生じるとそれは婆的には私の責任、私の悪事、私の至らぬところである。ウザー。
物事の真偽に無頓着なところ。(無責任にソースのない噂話をひろめたりする)
面倒見はよく、私も家に遊びにいってお世話になったこともある。
あるんだけど・・・。
なんだかだんだんとしっくりこなくなったのでだんだんと疎遠になってしまった。
この人は、キャッスル婆が可愛がった姪っ子の一人だ。
婆によく電話をかけてきて相手をしてくれていたのはいいが、
晩年、現実と妄想とがまぜこぜでカオス化している婆の話を全部本当の話と思ってきいてた節があった。
で、突然私に怒りの電話をかけてきて怒鳴りつけたりと理不尽なこともしたものだ。
電話でなく対面でなら誤解があっても解けたり、話し合ったりできたのかも。
でも私たちには物理的な距離があった。
その距離がそのうちにそのまま距離となったのである。
誤解があれば解けぬまま、食い違いは食い違ったまま。
昔の自分はもっと、こういうのをいけない、とおもう性質だったので、ながながウェットな手紙を書いたりなんかしたものだったが今はすっかりドライ、というかエンプティーなのだ。
そして失礼にも薄っすらとこんなことをさえ思っていた。
あのヲバが自分の人生から消えてくれるとすっきり?的な。
だって本当に面倒だったので。
キャッスル婆が亡くなり、またひとつヲバと私のつながりが消えてしまうと距離は加速して開いたようだ。
想像したとおり、うっとおしいヲバがひとり自分に介入してこなくなると心地よい、もっと早くにこの快適さを得たかった、とか思ってしまった私だったのだ。
今、ヲバは入院して闘病しており、親戚の集まりで顔を合わせる心配はない。
「ヲバのいない風景」はもう始まりつつある。
といっても、回復の見込みはありまだ死ぬと決まったわけではない。決まったわけではないけどその風景をみながら私は自分に問うている。
離れたまま終わってもいいか?
消えろとは思っていたけどチネとか思っていたわけじゃないんだよな。
反省しろとかおもっていたけど罰を受けろとか思っていたのとも違う。
情にほだされたり弱気になったりせず、自分が切ろうと決めたものは切るんだ絶対に、とか自分にいいきかせていたこともあったのだけど、そしてそれで手に入った快適もあったのだけど、切るばかりだと芸がないことにも気付いてきてしまったのだ。
が、あのヲバ家族がいないと親戚集まりがいつもより快適なため、沢山食べて沢山喋ってヘラヘラしてしまった、この変化、誰かに気付かれていたら嫌だ。

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色んな番組で色んなアイロンがでてきて・・・みていたら欲しくなってきた!
買っちゃうかも。でも使えるのか?

あと!
夜中にやっているアニメでサイボーグの是非を問うていた。
すでにサイボーグになっているおじさんが、サイボーグを否定しようとする人に
「それは程度の問題なんです」っていっていた。
PCとかスマホとかなしで暮らせなくなっていませんか?もし暮らせないとしたら
あなたの脳は一部すでに電子化している。
これには目からウロコである。
私の脳、もしかしたらちょっと電脳じゃん。
っていうか私ってちょっとだけサイボーグだったかもじゃん(萌
このサイボーグの度合い程度を変化させるだけ、全身サイボーグでもちょっとサイボーグでもどっちもサイボーグですよ!!
そうかわたし、サイボーグなのね!
コレって凄く面白い考え方だとおもった。