собака

わのこころ


今まで、いろいろな服を毎日着てきたわけだけれども、捨てた記憶がないのに、今手元にない服たちというのはどのようにして私の手を離れて廃棄されたのであったか。思い出せない。
いらなくなった靴下を捨てるときには、窓サッシの枠のところだとか拭いてからがお得ですのよ、奥さん!というのは知っているんだけども、靴下、下着のように覿面に消耗するものじゃなくて、セーター、ブラウスだとか、クリーニングに出したりする類の服。
子供の時の服は綺麗なものは誰かにお下がりとしてもらわれていって、これは服が古くなる前に私のほうが大きくなったからだ。
もう(横にしか)大きくならなくなった私は、同じ服をいつまでも着られるのでどこでケジメをつけたらよいのかわからない。
3年ぐらい前に買った、タートルのセーター。
色は紫色で細身ラインで編みこみがはいっていて七部袖。気に入っていた。
これをでかけるときに着ようとしたらば、微妙にニット地が伸びて、色にも買ったときほどの発色がなく褪せてみえて、古着然としていたので別のを着た。
一応よそ行きにしていたそのセーターだけれど、もうよそ行きじゃなくなった。
ちゃんと手入れもしていたのに、と捨てる気にならず、ならば部屋着にしようと思って最近家用になった。
私は近眼なので、メガネをかけていないと世の中すべてが霞の中にある。
その霞の中、今朝起きて最初に目にはいったのは濡れた犬だった。
ところどころ毛が抜け落ちて、先はもう長くないようだ。体は細くて目には目ヤニをためている。どうしてここへきたの?
勝手に私のホカペに陣取り暖をとっている。丸まって空気清浄機にじゃれている、風に見えたのだけれども、私の部屋に犬がいるわけはなく、それは夕べ私が脱ぎ捨てたセーターと、ヒッピーな風情を醸した薄汚れたフリースだった。
この二枚の部屋着が、ホカペの上でくつろぐ皮膚病の老犬にみえたのだ。
起きたてホヤホヤでショッキング映像をみたので心臓バクバクだった。肺が痛いだろうが。
部屋着といいながら、私はちょっと近くの自販機にいくぐらいならこのセーターとフリースを着て外出することがあるのだけれども、人からみると、器用に自転車に乗っておつかいにいく皮膚病の老犬に見えているんだろうか。
そうかもしれない。
メガネをかけてちゃんとみてみると、このセーターがほんっとうに汚くて、うやうやしくよそ行き用などと称されていた面影すらない。
いつの間にこんなに毛玉だらけになったのか。
買ったとき結構高かったのに、という気持ち。
よく働いてくれたのでそろそろヒマをやりたい、という気持ち。
着るだけで犬になれるセーターって素敵ではないか、という気持ち。
いろいろな気持ちがせめぎあって、このセーターをどうしたものか決めかねてしまう。


この日記は、皮膚病の老犬が、「フリースってあったかくていいなあ。タートルネックマンセー」とか思いながら書いています。