Не могу решить.

だって春なのだから


最近、SMに興味を持っている。
自分がSなのかMなのかはどうしたらわかるのだろう。それとも、確信をもって宣言ができないような状態ではSともMともいえないのだろうか。
杉ー本彩は、自分のことを「ドMなんです」と告白している。
「Sっぽいのに!(鞭が似合いそうだから)」と思いながら、さして引きもせずに聞いている自分。
SMはすでにタブーではないようだ。ただの性癖。「他のときは右利きだけども箸だけは左利きなんですよ」ぐらいの告白とみなされているのだろうか。
杉ー本の告白を、最初はセクシーぽい付加価値(をつけるためのリップサービス)、と思っていたのだが、何度も何度も杉ー本のアピールをきいているうちに、「私はMです」と宣言してからのSMは成立するのかという疑問を持った。
テレビでこれを宣言したらば、たいしたことのない状況でも喘いで喜んでみせねばならず、演技でこれをするのは苦痛かもしれなくて、しかしこの状況から生じた苦痛をも快感だと杉ー本が喜んでいるとしたらば、喜ばせてあげたらよいとおもう。
めちゃイケフジテレビ警察で)狭い檻の中に収容されて「興奮する」と杉ー本は喜んでいたが、こうなると、足が痛いのをおして社交ダンスをしていた杉ー本のプロ根性に「たいしたもんだ」と思った自分の気持ちのやり場がない。とても大変だったけれども杉ー本は幸せだったのだろうか。ちょっとややこしい。
そもそも、SM愛好家の欲望はそんなに四六時中発動されているものなのやら。
サド、マゾというのは、本当はあってはならないことにもかかわらず、欲望に抗えずについSM的状況に追い込んでしまう人と追い込まれてしまう人たちの「業」の総称だと思っていた。
言葉攻めと体攻めが同一にあるとしたらさらに興味深いことだ。
仕事の失敗を叱責されている人が、もしMだったら。
叱責している人が、もしSだったら。
快感が生じてしまう。しかも仕事中に。
そして説教が説教の意味を成さない。
Mは喜んで失敗する、Sは喜んで叱責するも、どちらも胸中には喜びがある。満たされてしまう。
こんな状況が本当は色んなところで展開されているとしたら、私が知る以上に世界はアメージングでクレージーといわねばならない。

そこで自分がSなのかMなのか。
痛いのは嫌いだ。ナジられるのも好まない。ときに過剰に人を責めて自分を正当化するフシさえある。これはSなのか。ただの自己中なのか。
かといって、人を苦しませて喜んでいるつもりもないのだ。世界は平和であって欲しい。
状況によって、SにもMにもなれる私なのだとしたらとりあえず喜んでおきたいとおもう。
潜在能力は開発してこそだ。
責めるときは容赦なく責めて気持ちよくなり!責められるときはあられもなく責められてさらに快感を!
自分にSMの素養がまるっきり無いのだとしたらがっかりだ。残念だ。
それで、日常に積極的にSMをとりいれることをやぶさかでないと考えはじめている私だ。
博打と女遊びの旦那が家に帰ってこなくなりまして!ついに生活費も打ち止めにされまして!子供4人もつれて私どうしよう!という人妻がいても、もしその奥様がMならば差し支えないのかな?という疑問。
例えば「大人の分別がない」と私を責める人がいて、その言い草がもし理不尽だったとしても「お前はまだSMの深遠さを知らない若輩だ!」みたいな解釈ができたとしたら私はまだ見ぬ世界への憧れでポーッとなっていればよい気がする。
世の中を常にSとMとで対にしておけば、世界はハッピーで溢れるのではないか。
ここ数週間で、SMに対する好感度が急上昇している私。
入りたい、と思ったからといって参入できる世界なのかがとても気になっているが、杉ー本を見ている限りその垣根はとても低そうなのだ。
素人の思い上がり?