求めすぎてる?僕。

魚は目をあけて眠るのよ(さ)

吾輩(=漱石=雪斉藤)が、こんなセリフを言っていた。
「人は懐かしい場所を探すために旅をするのかもしれんな」とかなんとか。
数日前、私はまさにそんな体験をしてしまったのだ。
初めて行った場所(これからしばらく通うこととなる)で、土地を把握するためにあたりをウロウロしていたところ、Y字路に出た。
そのY字のVのところで信号待ちをしながら「ああ、懐かしい。私は前にもこの場所にきたことが?!」という不思議な気持ちでいっぱいになった。
どうにもこうにももの凄い既視感なのだ。
並ぶ店といい貧乏くさい植え込みといい道路標識が句の字になっているところといい、見たことあるものだらけだ。
つまり既視感の正体ははハードオ○でありブックオ○であり、31アイスクリー○であり紳士服の○ナカであり、同業他社がこんなに密接していいのかの紳士服のアオ○であり激安靴店閉店セールかれこれ15周年であり、○ーソンでありツ○ヤでありマツモトキヨ○なのである。
家の近くにぱらぱらある店がぎっちり並んで一箇所にあったためにあたかもそこを自分の故郷とまで感じてしまう。
そんな我輩。記憶まで安さ爆発だ。今日も明日もモンナシーヌ。
慣れた感じにいきなりブックオ○に突入し、「国内アーチスト”お”」のところを物色してミッチのCDを買ってしまった。
クドカン作品に登場するミッチはいつも「アングラ演劇の演出家兼主役の中二野郎」の役なわけだが、演技しているミッチよりも歌うミッチのほうがよりクドカン的。
たぶんミッチはふざけているわけじゃないのに、どこか滑稽な印象をぬぐえず、それを聞いている私も、ついニヤニヤしたりしているが別に馬鹿にしているわけじゃあない。
笑わせている人と笑っている人。笑われている人と笑っている人、のように傍からは見えるかもしれないが、そうではないのだ。
違うの。私たちの関係はそういうのではありません。というこの「私たち」のニュアンスから滲んでいるなんか嫌な感じが、中二。
だからやっぱりこういうのをアングラというのだとおもう。どんなに知名度があってもそれはアングラなのだと思う。
昔、恥ずかしくてそういうのが好きと人に言えなかった。これからも秘密だな。