ハレハレ

でしょでしょ?

ミシンが壊れたので修理にだしたのがやっと返って来た。
と思ったら、今度はまた別のミシンが壊れる。
カタカタ音がするので釜の中をのぞいたら金属の部品とバネがポツーンと落ちていた。
悲しい気持ちでPCに向かうと、今度は左側にあるシフトキーがぬるい。
すんごく頑張って押さないと、予想だにしない文字が出現する。
左手の小指がつるぐらい必死だ。なのに急に小さい ゅ ←が打ち込まれたりしていてもうなにがなんだか!
絶望した!次々電化製品を破壊する自分に絶望した!
ミシンに触るのが怖くなった。これ以上壊したくない。

この夏、現実逃避活動(なんだその活動は)の一環としてアニメ界に進出してみた。
思えば、夜中に次々放送されているアニメ。
明らかに小さいお友達用ではない。不思議とも思わずスルーしていた。
大きいお友達用のアニメがもの凄く大量にリリースされていることを今更ながらに知って驚いている。
手始めに(これは夜中のアニメじゃないけど)、憂鬱なハルヒさんを見た。
これはちょっとドリーミン。
私が思ったように世界が動いている。これってノンフィクションでは?
私が幸せなときには世界が幸せであり、私が憂鬱なら宇宙の終わりなのだ。
頭に黄色いリボンをつけて制服着た人をよくみかける理由がよーくわかった。
シンクロ率抜群な歌と振り付けのハレハレが愉快な理由もよーくわかった。

アニメが量産されていることにも驚いたけど、職業を声優にしている人が大勢いることにも驚いた。マジで、日本で職業きかれて「声優」と答える人って総勢で50人いるかいないかぐらいだと思っていたのだ。
それもかなり高齢化しており、若い声を出せる人がいなくなっちゃったのかしら?なんて思っていた。とんだ勘違い。
最近流行っている(?)洋画の吹き替え、某会社の作るアニメの声を声優じゃない人がやるのは、人材不足のせいなのだと思っていた。
声優、大勢いるんじゃないか。
なのになぜ、上手くもない、声優としては素人といえる人がわざわざ不自由な吹き替えをする必要があるのだろう?

いつもジ●●の映画が公開される前になると、どこかの局が監督に密着する番組が放送される気がする。私は何度かM監督が密着されているのを見た。
最初に見たときは、愛嬌はあるけれども愛想のないおじさんで驚いた。
同時にホッとしたのも覚えている。
ほっこりと、いかにも優しげなおじさんが出てきたら気持ちが悪いなーと思いながら見ていたのだ。M監督は私が思っていたより怖くてヒステリーの毛さえ感じさせ、サディストというんじゃないけども不躾な人間(撮影クルーの一行らしい)に対してはかなり辛らつな言葉で毒を吐いているのだった。
「モノを作るのはあんたがたが考えるほど楽じゃないんだよ」とか、サラサラっとアニメを作ると自然にジ●●の世界が出来上がると思ったら大間違いだ、ということを訴えていた。
自分の中から、トト●の森の景色が自然と流れてくるんです、とかいわれたらどうしようかとおもっていたのだ。
想像して、デザインして、作ろうとして、苦労して作っている。
これは真っ当なことなんだけども、「好きなこと仕事にして評価もされているからそれって幸せですよね?」みたいなイージーな方向に誘導しようとした撮影隊にムカっぱらがたったらしい。
一方、画面の端々に見切れているそのM監督の下で働いている人とその家族、というのは思った以上に不気味なのであった。
おそらく今の日本で、アニメを生業にしようと志して、ジ●●に採用されるというのはとても名誉なことなんだろう。
スタジオにはいった時点で、目標達成した感があるのかも。
監督を崇める姿はなんだか教祖をあがめる信者のようであり(実際そうなのかも)、教祖はそれを明らかに嫌っているのに信者は群がって施しをせがんでいる、という風なのだ。
それで、そういう風に編集してあるのかもしれないが、どんな映画を作ろうか考えるのも監督、絵を描くのも監督、それを動かすのも監督、色を決めるのも監督、音楽決めるのも監督。
監督というのはそういうものなのかもしれないが、自分以外の人はみーんな「監督の指示待ち」ってかんじで監督が気の毒になった。
一緒に働いてはいるが、一緒に作っているようには見えないのだった。
ジ●●の一族において、生粋のジ●●の血が流れているのは監督一人だけ。
監督がいなくなったらジ●●の血は途絶えてしまうように見えた。
それを悲しいとも嬉しいとも思わないのだけれど、そんな環境で憂いていればこそネタが尽きることもないんだろうが、フォロワーがいない上、監督本人が救われていないっていうのはなんか寒々しくも思える。
その監督が、あんまりプロの声優を使わない。
大人が無理やり子供の声をだしている。
下手な俳優が素人仕事している。
どっちが寒いかジャッジは難しい。
手馴れた感じでサクサク演技されるのが嫌なのか。
下手でも新鮮さが欲しいのか。ただの宣伝効果なのか。

いまどき世間は●ニョなんですけど、私はまだ見ていないんで動いちゃう城の件。
最初はやっぱり下手さ爆発で、ちゃんとした声優の声でききたいなーとおもった。
声がかっこよければ、本人の顔が崩壊していても気にしまてん。
上手にイケメン声の人が演じてくれていれば、●ウルはもっとかっこよく成りえたのではないか。
でもハタと考えて。
●ウルというのはそもそもカッコイイ男子なのかどうか。
もしかしてヤツはアホなのではないか。マヌケで可哀想な人なのではないか。
カッコイイ声だと●ウルたりえない=声優だとかっこよすぎてダメなんじゃないか。
本人は凄くカッコイイつもりなのに、よくみると凄くバカスな男子。
まさにあの人では。
これって適役と言えるのでは!
「いつもの通りにカッコイイ君でやってくださいよ」ってなぐあいで、「究極の演技指導」(何も指導せずに本人にまかせると、自然にアホウでマヌケ)がなされたのではないか。
名監督だね。幼稚で脆弱で鼻につく感じがよくでていたかも。

アニメにしても洋画の吹き替えにしても、ひとつの作品の要素の中で声パーツの持つ意味だけがなんでこんなに複雑なのかと思う。
私は結構、自分のことを声フェチだとおもっていたが、夜中アニメをみまくってみても、似たような芸風の人が多くてほとんど聞き分けられないことに気付いた。
綺麗な声が好き(これは誰でもそうだろう。人によって好みの声があるだろう)、なだけでフェチというほど声一本に自分のリビドーを集約できない。これはフェチとはいえまい。
声だけじゃない+αが聞こえない。
みんないい声だけど、劇団あがりの子役みたいな演技といえば演技。
誰もが声優の役を演じている人、という感じで、馬鹿にされているような気持ちにもなる。
せっかく作った料理なのに、味見もせずにいきなり醤油をドバドバかけられて悲しくなるような。
私も醤油がないと困りますけど、なんにでもかけるわけじゃないですよ、というそういう気持ち。
全部同じ色で塗りつぶされるようなーー。
監督の憂鬱もそういう具合?
本来、私はもっと声優を愛せるつもりだった。別の憂鬱にたどり着いたのだ。なぜだ。