Я не хочу расставаться.

雨ですよフォー!


「世界一の親」じゃなくて、「世界一幸せな親」(良き伴侶と出会い、良き子孫に恵まれて)と言うつもりが言い間違えたんじゃないのか。
「世界一の苦労もした」というところを言いたいがために、先走って口が滑ったと思われる。
しかし、周りに沢山人がいて、大抵は興味本位に悪意すらもっており、テレビの向こうにはもーっと大勢の人がいて、という状況であんなにきっちり喋れるのが凄いと関心した。
私の場合、発言が増えると比例して失言も増え、沢山しゃべったからといって言いたいことが言えたか、といえば決してそうではない。
“言いたいことをきっちり言える”というのは得がたい技術だ。
習得するために“引き換えに何かを捨てました”といわれたら納得する。
喋ったあとに人からどう思われるかを心配する心、とか。
発言する場を持つために手段を選ぶ理性とか。
その点からも自分とは別世界。
語ることと理解されることとは違うということか。
会話の重要視する気持ちには変わりはない。沈黙は卑怯で傲慢だと思ってしまう。


相撲見ながらの団欒というのは自分の中では“良き思い出”で、今も“愛すべき日常”の中にある。相撲協会が893のダークさと、サラリーマンの気苦労を足して何もひかないような世界であることを知るに至っても、“相撲中継”は相撲の世界とは別物として愛好しているフシがある。
そうなると、優勝パレードに詰め掛ける人だとか、部屋と家族ぐるみの付き合いだという商店街の人々だとかもまた幻の存在で、親方が消えたらあの人たちも消える気がする。


それとはあんまり関係ないが(ちょびっとはある)、この間テレビで「美空ひばり物語」みたいなのをやっていて、特別な思い入れがあるわけでもないので配役とかどうでもいいが、ひばりの母ちゃんの役がピン子なのはチガーウと思っていて、芸風的にはドンピシャだが見た目がダメすぎると思っていて、ピン子よりも適任者が別にいるだろうが!と思っていて、そうは思うものの、具体的に適任者を思い出せずに苦しんでいたのだが、それは中野商店街の肉屋のおばちゃんやー!と思い出してすっきりした。ていうか、この人ひばりの母ちゃんですよね?違うの?